比較するのが習い性
ヒラリー・クリントン国務長官の来日に際して街中でインタビューされた人が「日本にもあんな女性政治家が出てきてほしい」という趣旨の発言をしていました。
そう言えばアメリカ大統領選の直後は、どこへ行ってもオバマ大統領の話題で持ちきりでした。
興味深かったのが、大半の人が「アメリカはあんな指導者を出せるのに、それに比べて日本は・・・」とか「オバマさんの演説に比べて、日本の政治家の演説は麻生さんも小沢さんも全然ダメだよな」という「あちらはあんなにすごいのに、それに引き換え日本は・・・」という文脈で語っていたことでした。
哲学者の内田樹氏が「日本人は『それに引き換え』というかたちでしか自己定義をできない国民である」と述べておられました。
確かに、ビジネスの世界でも「アメリカではこうなのに日本は・・・」とか「北欧ではああなのに日本は・・・」というように、他国との比較で日本を語る人や書物は枚挙にいとまがありません。(気づいてみれば、私も結構そういう発言をしています)
普段の生活でも「フランスではこうなのに・・・」などと外国との比較で物事を語る人は至るところにいますよね。
でも、日本人は卑弥呼の時代(もっと前かも知れませんが)から今日まで、ずっとそういう風にしてきたのです。
卑弥呼から幕末までの日本は常に中国と比べていましたし、明治になるとイギリスやフランス・ドイツになり、第二次大戦後はご存じの通りアメリカがメインの比較対象となりました。
これはいいとか悪いとかではなく、かつては中国の辺境に、現在はアメリカの辺境に・・というように影響力の強い国の周辺に位置するという立ち位置を選ばざるを得なかった日本の習い性だとしか言いようがありません。
でも、それを卑下する必要はないと思います。
松岡正剛さん(だったと思います。間違えていたらゴメンナサイ)が「辺境の立ち位置を活かして、影響力のある国の文物を取り入れてそれを原産国と比較しながら常に革新してきたのが日本。それは決してマイナスではない」というような趣旨のことを書かれていました。
考えてみれば、中国から渡来した漢字から平仮名やカタカナという独自の文字を生み出しましたし、納豆スパゲティやたらこスパゲティなんていうのも秀逸な発明じゃないですか。
音楽に詳しい友人によると、日本のラップは当初は完全なアメリカのコピーだったそうですが、アメリカからラップが紹介されて2年も経たないうちに完璧に日本独自のラップ音楽に育ったそうです。
常に他国と比較することが習い性であるとしても、比較することで自らを省みて革新につなげていけるのであれば、それはそれで徹底的に磨きをかけてみるべきだと思います。
そうすることで、平仮名やカタカナのような「改変というより発明」とまで呼ばせるような域にまで高まる可能性があるのですから。
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