外部性に追いやるな
渡辺京二氏の「逝きし世の面影」は、江戸時代末期から明治初期に日本を訪れた外国人によって書かれた旅行記や報告書など膨大な文献を詳細に分析し、1999年に和辻哲郎文学賞を受賞した名著です。
「日本は貧しく遅れた国であり、封建制の下で庶民の暮らしぶりは悲惨である」という先入観を持ってやってきた多くの欧米人が、実際に見た日本の庶民が(他のアジア諸国はもとより、自国の庶民と比べても)活き活きと幸福そうに生活し、礼節や衛生面でも(庶民レベルでは)欧米をも凌いでいることに驚嘆します。
素朴な暮らしぶりではあるが農村でも衣食は充実し、当時の多くの国と違って乞食もほとんどおらず、平和で穏やかな庶民の暮らしぶりに感動すら覚えます。
彼らの多くは日本の近代化を促進するために訪日したのですが、少なからぬ人が「日本を開国させて欧米化させるのは正しいことなのだろうか」という感想を抱きます。
明治以降、日本は近代化を図り欧米諸国に近づく努力を重ねます。
それは多くの成果を挙げますが、そのことによって一方で日本は大切なものを失ってきたのではないか・・・「逝きし世の面影」は渡辺京二氏による問題提起の書でもあります。
最近、ジャンルの全く異なる二冊の本を相次いで読んだところ、いずれの書にも「逝きし世の面影」が取り上げられていて驚きました。
一冊は大井玄氏の「痴呆老人は何を見ているか」、もう一冊は中谷巌氏の「資本主義はなぜ自壊したのか」です。
「痴呆老人は何を見ているか」は、認知症の研究から始まって文明論にまで踏み込んだ快著ですが、大井氏は、個人が地域社会とのつながりを保ち年長者が敬われている地域では認知症の表れ方が穏やかで、徘徊やせん妄といった症状がほとんど起きないことを紹介しています。
「逝きし世の面影」に紹介されている江戸末期の庶民の生活は、落語に出てくる長屋住人のようなイメージでもあり、日本人の懐かしく穏やかな原風景と言ってもよいでしょう。
本来、こうした地域社会とのつながりの中で生きてきた日本人が、欧米に追いつき追い越そうとする中で個人主義・成果主義を強調してきたことによって、老人を弱者として切り捨て、社会から尊敬されない存在に追いやってしまった・・・
欧米を追いかけ、特に戦後はグローバルスタンダードという名のアメリカンスタンダードを目ざしてきた日本の負の側面の一つが「痴呆老人」の出現ではないのだろうか、大井氏はそう問いかけています。
もう一冊の「資本主義はなぜ自壊したのか」を著した中谷氏は、小渕内閣時代に堺屋太一さんから懇願されて「経済戦略会議」の中心的メンバーを務めるなど、構造改革の旗振り役でもありました。
構造改革を唱え、グローバルスタンダードの導入を金科玉条としていた中谷氏は、当事の自分が間違っていたことを率直に認めて「資本主義はなぜ自壊したのか」を懺悔の書として出版しました。
話は少しそれますが・・・
一般に評論家や学者といった人達はメディアを通じて自信満々の理論や予想などを開陳しますが、結果的に自分の理論や予想が外れていた場合に反省の弁を述べたという人を寡聞にして聞いたことがありません。
私は中谷氏の過去の発言が間違いで、今回の著作の論旨が正しいと結論づけるつもりはありませんが、少なくとも中谷氏が「自分は間違っていた」と思った時に、率直に過去の自分の間違いを認めて懺悔の本を出したことは評価に値するものだと思います。
話を戻して・・・
グローバルスタンダードを導入して日本経済を欧米に近づけようとした張本人でもあった中谷氏は、かつては社員を家族のように考えていた企業経営者が少なからずいたのに、今やいとも簡単に人減らしをしてしまう現状や、実際の能力や働きぶり以上に収入格差が開いていく社会に危機感を抱きます。
中谷氏は、個人主義や成果主義は、一方で金銭的な大成功者を生んだけれど、本当に多くの国民を幸せにしたのだろうかと自問自答します。
やはり「逝きし世の面影」を読んでいた中谷氏は、そこに描かれたかつての日本が持っていた大切なものを、この国は忘れてしまったのではないか・・・そう考え始めるようになったのです。
イギリスのレスター大学の08年調査報告によれば「自分は幸福だ」と感じている人の割合が、日本は世界第90位という低さです。(ちなみに1位はデンマークで、アジアでは8位にブータン・9位ブルネイ・17位にマレーシアが入っています)
幸福度アジア1位のブータンという国は、GDP(国民総生産)よりもGNH(国民総幸福度Gross National Happiness)を施政の指針にしていることで知られています。
「幸福になりたい」と願わない人は、まずいないでしょう。
充分な金銭の確保は幸福になるための一側面ではありますが、今の日本は、それがあまりにも強調され過ぎているのかも知れません。
経済学では、経済活動がもたらす影響のうちで、金銭に換算できないものを「外部性」と呼んで、研究対象から削除します。
例えば、資本主義が浸透し、経済活動に組み入れられることで伝統的な生活を捨てざるを得なくなったネイティブアメリカンが失った誇り・・・
例えば、開発によって失われた、豊かな自然に囲まれた暮らし・・・
こうしたものは「外部性」という名の下に、経済学では無視されてしまうのです。
しかし、幸福という概念には、金銭で換算されないものが数多く含まれているはずです。
そもそもビジネスそのものが、本来は、誰かの役に立ち誰かを幸福にすることで報酬を得る行為のはずです。
だとすれば、人を幸福にしたことの結果として得られる報酬こそが、自分が得る資格のある報酬なのですが、成果主義やグローバルスタンダードは、そこから逸脱して「より多くの報酬を得ること」のみを追求することを必ずしも否定しなくなってしまったのではないでしょうか。
成果や競争・報酬といった側面に目を奪われるあまりに、個人の尊厳や働く意義・個人と地域社会とのつながり・・・
我々は、こうしたものを「外部性」に追いやってしまったのかも知れません。
私は、成果主義やグローバルスタンダードは悪で、それは否定されるべきものだとは思っていません。
しかし、経済学が「外部性」という名の下に無視してしまうものについてもきちんと目配りすることを忘れてはいけないと思いますし、成果主義やグローバルスタンダードといった基準と個人の幸福とのバランスをどう取るのか・・・簡単に結論の出ることではありませんが、少なくとも常にそれを考えていることが経営者の重要な役割の一つであろう、そう思うのです。


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