弱い敵との共存
掲示板などネット上の発言スペースでは「匿名」という事情も手伝ってか、驚くほど過激な発言が飛び交っていることがあります。
韓国では、ネットでの誹謗中傷の嵐に耐えかねた有名女優が自殺して、社会問題にまでなりました。
現代は、メディアなどを通じて大勢の人々が特定の意見に煽られやすく、いったん火がつき煽られた意見は、物事の本質やその後の影響などを誰もが深く考察することもなく、特定の方向に一斉に向かってしまうことがあります。
郵政民営化選挙での自民党への地滑り的投票もそうだったし、事件などが報道されると、法的には何も決まっていない段階で、特定の人物に対して異常とも思えるバッシングが起きることがあるなど、一斉に動き出した時の大衆(及び大衆を利用する人物)の影響力は恐るべきものがあります。
誰かがある意見を述べ、それを「正義」だと言い張って大勢の共鳴者を集めることができれば、それが集団としての決定事項になってしまうのです。
オルテガ・イ・ガセーというスペインの哲学者は、今から80年近く前に出版された「大衆の反逆」という著書の冒頭で「大衆が完全な社会権力の座に登った」と述べました。
時代劇などを見ていると「お上のなさることだから・・・」といった発言をする庶民が出てきますが、ヨーロッパでもほんの200年ほど前までは、自分が物事に対する「思想」を持っていると信じている庶民などほとんどいませんでした。
18世紀頃までの庶民は「政治家など社会上層部の人間たちが計画することや実行することが善いか悪いかを判断したり、賛成したり反対したりすることはできたが、庶民の行動は、他の人々の創造的な行為を肯定的あるいは否定的に反射することに限られていた。庶民は、政治家の思想に対して、自らの思想を対立させたり、自らの思想で裁こうなどとは願ったこともなかった」とガセーは述べています。
ところが、基本的人権や市民権といった考えが広まってきたことや、庶民の所得水準が上がってきたことなどもあって、19世紀以降、庶民は「自分が自分自身の主人であり、他のいかなる人間とも平等である」と自覚し始めるようになり、それに連れて「自分があらゆることに関して思想を持っている」と信じる大衆が増えてきたのです。
これは決して悪いことではないように思いますし、むしろ人類史上の進歩ではないかとさえ思えます。
しかし、ガセーは「必ずしもそうではない」と述べています。
「そもそも思想というのは、真理を欲し、真理を極めようとする強い意志と深い思索から生まれるものであり、浅薄な知識を振りかざして思想とか意見とかいってみても無意味である」とガセーは言います。
しかし、浅薄な知識に基づいた思想や意見であっても、それに共鳴する人間を圧倒的な数まで集めることができれば、数の力に勢いづけられて、浅薄な思想や意見でも他者に強制することができるのです。
「大衆が権力者の座に登った」と言われる所以ですし、メディアが第三の権力と言われるのも大衆動員力を持っているからです。
ここで厄介なのは、大衆が(あるいは大衆を利用しようとする誰かが)数の力を背景に権力を行使する時は「言論の自由」などの錦の御旗を掲げていることです。
しかし「自由」の名の下に行われている実際の行為は、多数派による少数派への「暴力」であることが決して少なくありません。
KYという言葉があります。
しかし、こういう言葉の使い方は、集団の中で異論を述べる人間を「KY(空気が読めない奴)」として粛清してしまう可能性につながりかねないとも思うのです。
「言論の自由」というのは、何を言ってもよい自由ではありません。
オルテガ・イ・ガセーが「自由」に対して述べている一文があります。
「自由主義とは政治権力の原則であり、(権力側である自分たちの権力が、仮に絶対的であったとしても)原則に基づいて自分を制限し、自分を犠牲にしてまでも、自分たちが支配している国家の中に、その社会的権力、つまり最も強い人々・大多数の人々と同じ考え方や感じ方をしない人々が生きていける場所を残すよう努めることである。自由主義とは至上の寛容さなのである。我々は、このことを忘れてはならない。自由主義とは、多数者が少数者に与える権利なのであり、だからこそかつて地球上で聞かれた最も気高い叫びなのである。自由主義とは、敵との共存・そればかりか『弱い敵』との共存の決意を表明するものである」
この一文で最も重要なフレーズは「弱い敵とも共存する決意」という部分です。
強い敵というのは簡単に倒せない訳ですから、こちらの意思とは関わらず、当面は共存せざるをえないことが多いでしょう。
しかし「弱い敵」は、その気になればいつでも一気に倒すことができるし、抹殺することもできるわけです。
しかし、仮に自らが圧倒的な権力者の側にあってもそれをせずに「弱い敵が生きていける場所を用意し、弱い敵とも共存できる」度量を持つことこそが、人類が発明した自由主義の気高さであり、根幹でもあるわけです。
ガセーは「自由主義という、かくも優雅で曲芸的で自然に反するような優れた思想に人類が到達したとは信じがたい」と述べ、だからこそ「同じ人類がたちまちそれを廃棄してしまうかも知れない」とも述べています。
大衆が「自由主義の本質」を忘れて行動する時、それは弱い敵を徹底的に糾弾し、時には完全に抹殺することにつながります。
ガセーが「大衆の反逆」を出版したわずか3年後、ドイツで一人の男が大衆の心理をつかみとることで政権を獲得し、大衆権力の上に乗って少数派を徹底的に抹殺しました。
そして、80年後の今日、ネットなどのメディアを通して、匿名性の高い「大衆」が権力を持ちえる状況が出現しています。
今こそ、自由主義の根幹を支える「弱い敵との共存」という真理を、我々は再認識すべき時ではないでしょうか。
私は、強くそう思うのです。
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