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加害者になり得るかも知れないという視点

食品偽装や脱税・談合・・・企業の不祥事が取りざたされるたびに「経営者の倫理観が欠如している」という報道がなされ、当該経営者は徹底的に叩かれています。

メディアも、そこで論評している識者達も(そして我々も)、不祥事を起こした経営者に非難を注いでいる時は被害者と同じ視点に立っており、その視点から離れることができません。

しかし、どこかで何かがほんの少し違っていただけで、わずかの思い込みで、あるいはやむにやまれず・・・自分だって似たような状況にいたら加害者の立場になっていた可能性はないのだろうか。 そういう視点を我々は決定的に欠落させています。

そもそも、不祥事を犯した経営者を「倫理観の欠如」という言葉で総括してしまってもいいものなのでしょうか。


確かに、彼らが法を犯したたことは事実です。
しかし、「倫理」とは「人としてどう生きるか」という規範であって、法に触れるか触れないかを測る尺度ではないはずです。

メディアは(いや、メディアだけでなく我々自身も)、法を犯した経営者を「倫理観の欠如した人間」として徹底的に糾弾しますが、その一方で法の許す範囲でコスト削減を徹底して利益を極大化した経営者には賞賛を与えます。

企業利益を追求した結果、法に触れるギリギリであっても内側にいて利益を上げたら賞賛され、少しでも踏み外したらメチャクチャ叩かれる。
結局、我々が問題にしているのは倫理観などではなくて、法律の境界のどちら側にいたかということだけなのです。

だとすれば、「倫理観が欠如している」と指弾されている経営者たちの倫理観は、実は我々と大差なく、彼らが追求しようとした金銭への欲望は我々もまた共有しているものであるというイマジネーションを持つことなしに、メディア報道に乗って彼らの「倫理観」を云々し、被害者の視点からのみ非難することなどできないのではないでしょうか。

何かがほんの少し違えば、我々だって加害者になってしまう可能性があるかも知れないのです。

株式会社という仕組みが誕生した当時、株取引をする投機家による不正やインチキが横行したことから、当初イギリスでは株式会社という組織を禁止していたことがありました。

アダム・スミスは「企業とは利潤追求のために利己的に振舞う組織である」と述べました。

「法には触れないけれど倫理的にはどうか」と思われるようなものでも、そこから受け取る利益が大きいとすれば、その誘惑に抗しきることができる企業経営者は決して多くはないと思います。

会社というものは、本来そうした胡散臭さを持っているのだという認識が我々には必要なのです。

経営者にとって本当に重要なことは、法律を知ってうまく立ち回ることではなく、(放っておくと、本来胡散臭いものを持っているのが会社という組織だからこそ)自分が運営する企業とは社会にとってどういう存在であるべきか、そういうところまで思考のリーチを広げることだと思うのです。

会社というものが本来持つ利潤追求のための利己的な行動と社会や従業員の利益とが結び合っていけるようなベクトルや論理をどう見つけるのか・・・一見きれい事のように聞こえるかも知れませんが、少なくとも経営している企業をゴーイングコンサーンとして永続させていきたいと思うのであれば、社会という生態系の中で企業が長期的に生き残っていくために必要なことは何なのか、そういうことを真剣に思索することが経営者の役割だと思うのです。

私自身、深い自省の念をも込めて・・・そう思います。

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